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横須賀オン・マイ・マインド

(横須賀のタウン誌 「朝日アベニュー」に毎号連載中のショートエッセイをそのまま掲載しています。)


第78回 白丸を大切に

 ジャズの第一の魅力は言うまでもなく即興的に奏されるアドリブにある。しかしその対極には忠実なストレートメロディ(主旋律)をじっくり味わえるスローバラードがあり、こちらも捨てがたい魅力を持っている。
 ジャズの名手と言われる人たちはアドリブの名手であると同時にゆったりと歌い上げるバラードの名手でもある。テナーサックスの巨人、ジョン・コルトレーンはモード奏法によってハイテクニックなアドリブソロを完成させた人である。しかしその一方で晩年の“Ballad”では心の底から紡ぎだされるようなストレートメロディが深い感動を与えてくれる。
 昔先輩ジャズメンから「バラードでは白丸を大切にしろ」と教えられた。白丸とは2分音符や全音符のように長く伸ばす音のことである。つまりバラードをストレートメロディで演奏するには音数を少なくし、白丸の一音一音に全神経を集中する必要があるのだ。白丸の音を響かせるには音質、抑揚、強弱、などの基礎的な技術に加えて唄心が求められる。無神経な白丸では聴く人の心は捉えられない。
 ライブのメニューに私はスローバラードを必ず取り入れる。曲の最初に白丸を一音吹いただけでお客様に「良いなあ!」と感銘を与えられるようになれば本望なのだが。

第77回 ふぐの毒

 食通の間ではふぐは毒を少し残し、舌がちょっとしびれる程度の刺身が最高だそうだ。ジャズの場合、アドリブソロはコードに沿って行うのだが時にコードから外れた音を意識的に使うことがある。これをテンションと呼ぶ。テンションとは「緊張感のある」という意味である。ふぐの毒に相当するスリリングな音でミストーンとは紙一重である。
 ある高名なジャズマンは「もしアドリブソロの中でミストーンを出してしまったらその音を同じ曲の中で3回吹け、そうすればその音はミストーンでなくテンショントーンとなる。」と言っている。
 またデュークエリントンはテンションコードを多用するので有名である。在籍していたあるプレーヤーの話だが「エリントンの前でアドリブする時は絶対コードから外れていると思った音を思い切り出せ、すると彼は『今の音、良いね!』と褒めてくれる。」のだそうだ。
これらの挿話には多少誇張や皮肉がこめられているものの納得させられる点もある。しかしふぐの毒もテンションコードも一部マニアックな玄人好みの範疇であると言わざるを得ない。現実には毒を抜いた料理、無理なテンションを抑えた演奏がまずは無難であろう。

第76回 ライブのウェア

 一流レストランやパーティではドレスコードと言って参加者や客の服装を規定する場合がある。店やパーティの品格を保つためである。
 ライブの演奏者には通常それほど厳格なドレスコードはないがある程度の規定は設ける事がある。最もフォーマルなウェアはタキシードである。リサイタルや公式行事、ホテルでのディナーショー等に着用する。チャージを戴く通常のライブでは大体ダークスーツにネクタイ着用が一般的であろう。中にはブレザーにノーネクタイと言った程度の軽いコードの時もある。逆に屋外のイベントやビアガーデンのような所ではアロハ等カジュアルウェアで統一する方が馴染みやすい。
 男性の場合はこの程度だが女性歌手だとそうは行かない。共演する女性歌手のコスチュームを見ているとかなり気を使い、努力の跡が伺えるのだ。中にはライブが決まると曲目より先にドレスを考える歌手もいるそうだ。彼女等が登場するとパーっとステージが明るく華やかになるのでそれだけの価値はある。
 たかが衣装、されど衣装、演奏には無関係だがお客様に好印象を与えるような気遣いは必要である。ウェアが決まれば演奏も少しはマシに聴こえるかもしれない。

第75回 良いものは良い

 ライブ会場であるお客様から「高橋さんのジャンルはジャズの中の何ですか?」と訊かれた。ジャンルねえ、余り考えたこともなかった。
 一般論としてジャズの歴史を大雑把に捉えるとニューオリンズジャズ→スイングジャズ→モダンジャズと変遷をたどり、それ以後はフュージョンやフリージャズに行き着く。この流れの中でスイングからモダンにかけての移行期を“メインストリームジャズ”(正統派ジャズ)と呼んでいる。名前のとおり数多くの素晴らしいプレーヤーによる名演奏がある。私はこの辺のジャズを演奏する事が比較的多いので私のフィールドと言えるかも知れない。
 だがしかし歴史や呼称などはどうでも良いことである。私もこうしたジャズだけにこだわっている訳ではなくライブではニューオリンズでもモダンでも良いものはどしどし演奏メニューに入れている。
 かの有名なジャズの御大デューク・エリントンが名言を吐いている。“Good music is good music“と。つまり良い音楽は文句なく良いのである。私に質問されたお客様には「良いものは良いで余りジャンルにこだわる必要がないのでは。」と言うことで納得して戴いた。

 
第74回 もっとゆっくり

 先日N響メンバーによる室内楽を聴いた。その際ウィンナワルツの解説の中でリーダーのヴァイオリニストが興味あるトークをしていた。彼がウィーンフィルのメンバーにウィンナワルツの奏法についてクリニックを受けた時開口一番言われたことは「もっとゆっくり弾きなさい。」だったそうだ。
 私もジャズで同様な経験がある。本場のニューオリンズミュージシャンの演奏はとてもゆったりしたテンポで驚くほどのドライブ感を出す。これには様々な要素が絡んでいる。その一つとしてドナウ河やミシシッピ河の流れ、全体的にのんびりした街の風情等と無縁ではないような気がする。
 今この原稿を京都で書いている。寺社を拝観し、庭園を散策して大きな感銘に浸っている所だ。しかし反省するのは時間がないせいもあり見て回るテンポが速すぎる事である。いつの間にか新宿の雑踏を進む歩調になっている自分に気づく。
 心地よいスイング感を身につけるためにはこれではいけないのではないだろうか。ここ京都にしばらく滞在し、鴨川の流れに耳を傾け嵯峨野の落ち着いたたたずまいに浸って「もっとゆっくり」を体感すべきなのかもしれない。

 
第73回 叱られて

 私の人生の中で私を真剣に叱ってくれた人が3人いる。小学校の担任の水谷晴子先生、中学のブラスバンドの東清蔵先生、そしてサラリーマンになってからの創業社長堀禄助氏である。3人とも既に鬼籍に入られているが彼らにこっぴどく叱られた時は心底憎んだものである。しかし後で考えると彼らから得たものは大きく、まさに恩人と言える。
 楽器面でしごかれたのが東清蔵先生である。先生は中学校にブラスバンドを創設する時に専任のコーチとして就任、全くの初心者集団を1年足らずで発表会で演奏するまでに成長させる手腕を発揮された。
 海軍軍楽隊出身で指導は厳しかった。彼の専門がクラリネットだったこともあり特にクラリネットパートには連日雷の連続、毎回今度こそ退部しようと仲間と「退部届」を懐に話し合っていたものである。
 当時は部員の数より楽器の数が少ないために放課後の楽器争奪戦も熾烈。皆叱られないために先を争って練習したものである。未だに「普段は優しい方で」などという美辞麗句は浮かんでこない。しかしこうして鍛えられたクラリネット仲間が未だに楽器を続けているという事からするとあの厳しさが上達の原点だったのは間違いない。

第72回 時代遅れ

私はカラオケが苦手である。というより歌そのものが苦手と言える。だから演歌やポップスの曲は余りピンと来ないのだが川島英五の代表曲「時代遅れ」だけは例外である。

一日二杯の酒を飲み
肴は特にこだわらず 
マイクが来たなら微笑んで 
十八番をひとつ唄うだけ・・・


この阿久悠の歌詞が琴線に触れるのだ。この歌詞通りマイクが来て「一日二杯の・・・」と歌い始めると「バケツ二杯か!」等と不届きな野次を飛ばす輩もいるが私の生活信条を歌っているかのようで心がこもる。

一方ジャズでも”I‘m oldfasshioned“というジェローム・カーンの名曲がある。私の大好き曲で時々ライブでも演奏する。こちらの曲は「あなたがいつまで古風のままでいてくれたら 私もこのまま古風で良いの」と男に惚れた女の色っぽい歌詞がついている。この曲は旋律がとてもすばらしい。

先述の「時代遅れ」の歌詞は続く。

目立たぬように はしゃがぬように 
似合わぬことは無理をせず 
人の心を見つめ続ける 
時代遅れの男になりたい・・・。


子年の年頭に当たり今年も自分のペースを守り「時代遅れ」で”old fashioned“な生活態度を守っていこうと考えている。

第71回 リード選びの悩み

 クラリネットやサックス等の木管楽器ではリードといって葦の一種で作られた板状の素材を振動させて音を出す。天然素材なので製品にばらつきがあり、天候や種々のコンディションにより影響を受けやすい。
 リードが音の良し悪しを左右するので木管楽器奏者はこの選別に細心の注意を払う。私は常時10枚ほどの「即戦力」を抱えているがどれもそれぞれ鳴り方が微妙に違う。事前の練習で良く鳴っていたので採用したらいざ本番で「ん?」ということも多々ある。ライブ前は野球の監督が先発ピッチャーを決める時のような苦しみを日々味わっている。
 リードの価格は1箱10枚入りで大体3000円程度だが1箱の中で良く鳴るものは3〜4枚であとはほとんどゴミ箱直行となる。私の場合はアルトサックス、ソプラノサックス、クラリネットの3種揃えておく必要があるのでその費用はバカにならない。長持ちするプラスティック製もあるにはあるが音質上、私は天然素材を愛用している。
 新しいリードを1枚ずつ試奏する時は良い1枚にめぐり合う喜びよりも捨てる苦しみの方が多いのだ。こんな時はいつも「リード不要のラッパやフルートをやっていれば良かったなァ」とタメ息が出てしまうのだ。

第70回 演奏会の労力

 飛行機事故で亡くなった脚本家の向田邦子さんがエッセイで語っている。「1時間ドラマの脚本を仕上げるのは炭坑夫一日の労働もしくはリサイタル開催の仕事に匹敵する。」と。肉体的な労力のみならず創作力を発揮しつつ神経をすり減らす脚本執筆が多大なエネルギーを必要とするのは大いに理解できる。
 ではリサイタルはどうだろうか?我々ビッグバンドリサイタルの手順はざっと以下の通りである。朝開館と同時に楽器搬入を開始しステージや受付設営、PAチェック、ゲスト歌手とのリハーサル等で午前中はあっという間に過ぎる。午後から本番を迎え無事演奏を終了後撤収完了まではざっと8時間、かなりぐったりと疲れる。つまり肉体的な労力と精神的ストレスを加味すれば向田さんの分析はある程度妥当と言えるだろう。
 但し我々のリサイタルでは当日の労働は氷山の一角である。この日のために準備すべき雑用は山ほどある。そして何よりも根底に全員一丸となった長期に亘る練習が横たわっている。
 こうして見ると我々のリサイタル開催はドラマの脚本制作の数十倍の労力に匹敵するのではないだろうか。その結果があの程度の演奏というのは何とも「非効率的な労力」であると言わざるを得ない。

第69回 マルチプレーヤー

 一人で2つ以上の楽器を演奏できる人を「マルチプレーヤー」という。但し全く異質の楽器の場合に限る。私は不断必要に応じて本職のアルトサックスの外にソプラノサックスやクラリネット等も演奏している。しかしこれらの楽器はあくまで「親戚」であり、吹けて当たり前なので真のマルチプレーヤーとは言い難い。
 私の敬愛するアルトサックスの巨匠ベニー・カーターという人はトランペットも流麗に吹く。アンドレ・プレビンという人は著名なジャズピアニストであると同時にクラシックの名指揮者である。こういう人こそ本物のマルチプレーヤーと言える。
 私は不器用な奏者なのでマルチプレーヤーとは全く無縁であった。所が最近そうも言えなくなってきた。というのはビッグバンドではフルート持ち変え指定の曲が増えてきたからである。これまでクラリネットなどで茶を濁してきたがやはり合奏の音色上、フルートは必要不可欠なのだ。
 そこで今年からフルートの練習を遅ればせながら開始した。フルートはサックス等とは音の出し方が全く異なるのでまさに「ビギナーの苦しみ」をイヤと言う程味わっている。そして遂に10月のコンサートではフルートデビューを飾るのだ。いよいよ「マルチプレーヤーの卵」の誕生である。

第68回 唄バンの秘訣

 ジャズバンドでは楽器を主体としたバンド演奏の他に歌手の唄の伴奏、いわゆる“唄バン”の機会が良くある。大体は直前に渡された譜面を元にアドリブで対応する。出だしやエンディングは歌手の指示に従いつつ表情や仕草から当意即妙に伴奏する。慣れれば初対面の歌手でも一応合わせられるが歌手が感情を込めて唄いやすいようにサポートするのは案外難しい。
 あるプロの歌手の話では一番嫌な伴奏者は人の唄を聴かずに勝手に吹く人だそうだ。さもありなん。唄の邪魔になる伴奏などない方が良いに決まっている。それとやたらと隙間に音を入れたがる人でこれもナットク。「ああこりゃこりゃ」とか「それからどした」等のようなノリで間を埋められたらラブソングも型無しである。
 私としてはなるべく“恋人との語らい”のように吹く事を心がけている。
唄の邪魔をせず相手の話にあいづちを打つ程度の最小限の伴奏に留める。曲の中には1箇所必ずソロが回って来る。これは「あなたどう思う?」との彼女の問いかけである。その時だけ自分の言葉で感情を込めて表現する。
 とは言え実戦では自由に歌い上げる女性歌手のお気に召すようにはなかなか吹けないものだ。もっと若い頃から“恋の語らい”を勉強すべきだったと最近しきりに反省している。

第67回 懐かしのS盤アワー

 物心ついた頃ジャズへの興味をかき立ててくれたラジオ番組に「S盤アワー」がある。ビクターが洋楽レコードの普及を狙った番組であった。テーマの「エルマンボ」に始まり帆足まり子のDJでクロージングテーマ「唄う風」まで一心不乱に耳を傾けたものである。同種の番組でコロンビア系の「L盤アワー」ポリドール系の「P盤アワー」も人気があった。その後聴取者の人気投票で順位を決める「ヒットパレード」の出現につながるのだ。
 私がクラリネットを習い始めて間もなく秘かにマスターした最初の曲は「エデンの東」であった。この曲は当時のヒットチャートで何と4年間もトップの座をキープしたのである。  
 この時代のヒットチャートが現在のそれと決定的に異なる点が一つある。それは当時バンド演奏ものが上位の半数を占めていたことである。ペレスプラード、ラルフフラナガン、リカルドサントス、ビクターヤング、スリーサンズ等々人気バンドが名を連ねていた。最近のヒットチャートではバンド演奏ものは皆無と言って良い。勿論ヴォーカルものも悪くはないがあの優れたバンド演奏は一体何処へ行ってしまったのだろうか。
 ガーシュインの名曲ではないが”Strike up the band”、「バンドよ張り切れ!」と叫びたくなるのだ。

第66回 演奏旅行の楽しみ

 人気歌手の場合、ツアーと称して地方の演奏旅行を良く行う。津々浦々に人気を定着させる事と自分のアルバムの販売促進を兼ねている。
ジャズが全盛の頃はジャズバンドもツアーを良く行った。ビッグバンド単位で地方公演も珍しくはなかった。これをバンドマン用語では“ビータ”(旅の逆)と称していた。しかし最近では興行的にペイしないのでジャズバンドだけのツアーは極めて少なくなってしまった。
 所がたまたま6月末から7月初めにかけてそのツアーを経験する機会を得たのである。わずか5日間ではあったが三重〜愛知の会場で合計6回のコンサートを開催した。題して「新宿ジャズ祭in○○」。総勢20名弱のメンバーが4グループに分かれて演奏したミニジャズ祭であった。
 演奏前のセッティング、終演後の撤収そして次会場への移動と旅行としては快適とは言い難い。夜食は大抵日付が変わる頃となる。しかしこんなにタフな行程でも力づけられるのは聴きに来ていただいた観客の温かい拍手と声援である。終演後「来年も是非来て!」などというリップサービスを受けると旅の疲れはすっ飛んでしまう。今この原稿を旅から戻った直後に書いているが未だに旅の興奮醒めやらずである。よし来年もまた行くぞ!

第65回 バンド形態様々

 ジャズバンドは大きく分けると大編成のビッグバンドと小編成のコンボバンドがある。ビッグバンドは大体10名以上の人数から成り、譜面を中心として統制の取れた演奏を行う。それに対してコンボバンドは少人数でどちらかというと各奏者のソロに重点が置かれている。
 コンボバンドの中でもリズム楽器と2人だけのデュエットから9人編成くらいまで様々である。バンド内での役割は大雑把に言えばメロディを奏するフロントとリズムを担当するリズムセクションがあり、ピアノは双方の役目を兼ねる。現在私が活動しているグループは2〜8名までのコンボバンドから18人編成のビッグバンドまで多岐に亘っている。
 バンド形態に応じて苦もあり楽もある。ビッグバンドでアンサンブル(合奏)が決まった時の快感は何にも代え難い。だが大人数で練習を重ねるには時間的場所的な苦労が絶えない。
 一方コンボでは当意即妙の掛け合いを演じられるのもジャズならではの楽しさであることは間違いない。しかしメロディ楽器が少なければ少ないほどその責任と負担も倍加する。ワンホーン(メロディが一人)の場合は演奏の良し悪しは全て自己責任である。従って個人企業の社長のように常に自転車操業に苦しんでいる。

第64回 練習と本番

 野球の場合、ピッチャーが登板する前のブルペン(投球練習場)で良い球を投げていたのにいざ試合ではめった打ちに会う事がある。逆に調子はイマイチだが慎重にコーナーに投げ分けていたらスイスイ勝利投手と言うケースも稀ではない。
ジャズでもこれに似た経験を度々味わってきた。練習の時はすごく音も良く鳴っているし調子良さそうだと勢い込んで演奏するとステージでは大きな失望を味わう事が多い。むしろ大して準備もせずに演奏をスタートしたら意外と良い結果が出ることもある。 
 音楽の技術向上には練習するに越したことはない。日頃の地道な練習なくして良い音づくりは到底望めない。しかし即興性を重んじるジャズでは練習さえしていれば本番で上手く行くとは限らない点が難しいのである。また事前練習や前日のライブで好調であっても当日の演奏には何の保証にもならない。
 概して練習の際にイメージを膨らませ過ぎると本番では現実とのギャップで演奏がぎくしゃくしてしまう。ジャズに関しては“イメージトレーニング”は百害あって一利なし。自然体で臨むことが一番のようである。それに観客の声援という追い風が加わればしめたものだ。

第63回ラブソングあれこれ

 ジャズにはラブソング(恋歌)が多いなと日頃実感している。そこで実際にジャズ詩大全(村尾陸男著、日本アート出版刊)から無作為に100曲余りを抜粋して集計してみた。
 全体の50%が求愛型の正調ラブソングであった。次に失恋系のラブソングが30%で別れた相手を懐かしんだり恨んでみたりと言う内容。そして「恋とは・・・」という説得調が10%。この代表昨は”As time goes by”である。この曲は普通「時の過ぎゆくままに」と訳されているのは誤訳で時代が変わっても恋というものは変わらない、という意外にお固い歌詞なのだ。ラブソングでない曲も10%ある。主にブルースでやり場のない苦しさや虐げられた魂の叫びなどを歌っている。色恋とは無関係な暗い歌詞で日本の歌謡曲のブルースとは全く異質である。
 ちなみに日本の代表的な歌集である「百人一首」の中で恋愛を歌ったものは半分に満たない。しかもその内容は来ない相手を待つ寂しさや他人に内緒で秘かに恋い焦がれるという内向的な恋歌が多い。
 と言う訳でやはり「ジャズはラブソング也」は正しかった。ジャズフィーリングを保つには恋歌への理解を深めるかまたはブルース専門の奏者になるしか方法はないようである。

第62回ノリの違い

 ここに白人のトランペッターと黒人のサックス奏者の共演によるライブ録音CDがある。両者共著名な奏者でいずれも素晴らしいソロを展開する。所がユニゾン(同じメロディを一緒に吹く)では音の出のタイミングがずれている。ライブなどの場合は良くある事だが2人のノリが微妙に違うのである。
 こうしたことはジャズに限った事ではない。以前日本の姉妹歌手がウィーン少年合唱団との共演に先立つリハーサル場面がドキュメンタリーで放映された。姉妹と合唱団のタイミングがなかなか合わない。少年の一人が言う。「あのおばさん達僕たちと声の出だしが違うんだ。」クラシックの場合指揮棒の最下点が音の出だしなのだが童謡歌手の彼女らは指揮棒が最下点に達する前に声が出る。要するに両者のノリが根本的に違うのである。
 私自身の経験であるが初めてニューオリンズで現地の黒人ミュージシャンと共演した時にまず感じたのはこのノリの違いであった。彼らは決して難しいことをやっている訳ではないのだがそのノリはタメがあって分厚い。興が乗るに連れそのスイング感はグイグイ迫ってくる。我々日本人にはなかなか真似が出来ない境地である。この独特なニューオリンズジャズのノリの魅力が未だに私を捉えて離さないのである。

第61回音楽の右脳効果

 音楽と右脳の関係はこのコラムでも何度か触れた。音楽に右脳刺激効果があるのは一般論では正しい。しかし神経内科の米山博士によれば聴き方によってその効果は左右されるのだそうだ。
 昔懐かしい唄を口ずさんだり演歌を風呂場で唸ったりする場合の右脳刺激効果は皆無と言って良い。きれいなメロディほど効果は高く、リズムを強烈に感じるロック系やスイング系の音楽は左脳を刺激するそうである。
 また聴き方によっても違ってくる。何かをしながらBGMとして聴いている限り余り効果は期待できずじっくり音楽に集中して耳を傾けることによって初めて右脳刺激効果が得られるのだそうだ。つまりこうしたことを考慮した上での理想的な音楽鑑賞態度とは・・・照明を落とした部屋でクラシック系の余り聴き慣れない美しい旋律に没頭してじっくり耳を傾ける、ということになる。
 まあそれはそれで良い。しかし実際には音楽を楽しむのは何も右脳効果を高めるためだけではない。好きな音楽を好きな時に自由に聴く快感は何にも代え難いものだ。自由に音楽を楽しんでこそストレス発散や明日への活力につながる筈である。そういう訳で右脳効果の有無に関わらず私は今日もお好みのCDを取り出してはスインギーな曲やバラードに陶酔するのだ。

第60回ジャズとの出会い

 私のジャズはこれまで数々の「出会い」(いかがわしいサイトの事ではありません。)から生まれたと言っても過言ではない。元々中学時代から兄の影響でジャズへ強い関心は抱いていたが具体的な接近は大学1年生の時。部室で知り合った友人からサッチモやジョージルイスのレコードを毎日聴かされているうちにいつの間にかトラッドジャズの世界にはまってしまったのである。
 その後も恩師中村喜美夫氏との遭遇、ニューオリンズ・ラスカルズへの参加、そしてアメリカでの本場ミュージシャンとの共演経験等を通じて私の奏法や演奏スタイルが固まってきた。更に最近のジャズ活動の中で様々なミュージシャンとの出会いから受けた感動や影響は数知れない。
 先人の例を見るまでもなくジャズの世界では巡り会ったプレイヤーからお互いが触発しあい、新しい音楽を生んだ例は枚挙にいとまがない。人との「出会い」がジャズそのものを変えるのではないかと痛切に感じている。
 平成19年の年頭に当たり、今年も昨年に劣らず数多くの「出会い」に巡り会えることを切に願っている。新しい「出会い」がある限り私のジャズはまだまだ進化を遂げる可能性があるのではないか・・・。甚だ勝手な妄想ではあるがこれが亥年の年頭に当たり私が見た初夢である。

第59回  ジャズに譜面は要(い)らない

 昭和30〜40年代はジャズが今よりも盛んで特にビッグバンドジャズが全盛であった。ビッグバンドが入っているキャバレーやダンスホールは全国各地に無数にあった。
 バンドには分厚い譜面が備えてあり、バンマスから譜面ナンバーが告げられると即座に演奏開始する。当時はダンスバンドがメインであるから曲と曲の間はほんの数秒である。ミュージシャンには譜面を早く正確に読みとる能力が必要不可欠だった。その後ジャズはコンボ全盛の時代になりジャズの嗜好変化もあって奏者に求められる能力は読譜力よりはアドリブソロが重視されるようになる。
 勿論ライブでは今でも譜面を用意することはある。譜面によって曲順の指定や構成等をメンバーに伝達するのである。然し実際の演奏上では余り譜面を見ていない。逆に譜面に首っ引きでは余り良い演奏は望めないのである。譜面を読むという左脳の作業から離れてフレーズを創造するという右脳の作業に没頭した方がより良い演奏が出来るはずである。ライブ前に選曲して譜面を揃え、その譜面をコンビニで何枚もコピーを取って準備する作業はバンマスの任務のひとつであるがその譜面が使われないほど演奏が良いというのは何とも皮肉な現象である。

第58回  初レコーディング

 10月末に下田卓さん率いるカンサスシティバンドのメンバーとして初レコーディングを行った。正確に言えば30年前ニューオリンズラスカルズ時代に何枚かのLPレコード録音の経験はあるのだがその時は殆どライブ録音でありスタジオ録音は初めてなのである。
 スタジオ録音は「根気」と「こだわり」から生まれる。演奏を録音し、聴き直しては修正する作業を何度も何度も繰り返す。音楽を演奏するというよりは工芸品を丁寧に作り上げる作業に近い。
 それだけに完成した見本盤を聴いてみると“してやったり”というほのぼのとした満足感を感じる。敢えて宣伝文句を言えば「男の哀感をジャズテイストで歌い上げた下田卓オリジナル、珠玉の17曲」てな事になるのだろうか。下田さんの人気は抜群で先月の阿佐ヶ谷ジャズ祭出演後も前作のアルバムを求めるお客様が長蛇の列であった。今回のサードアルバム来春発売に乞うご期待である。
私個人にとっては初参加CDとは言え、内容は下田さんの唄を中心としたバック演奏であり私のアルバムとは言えない。今度は是非私のアルバムを・・・という夢が膨らんだレコーディングであった。


第57回  メジャーとマイナー

 音階(スケール)にはメジャーとマイナーがある。一般的にはメジャーは快活で明るく、マイナーは哀調を帯びた感じになるとされている。
 ジャズの場合は圧倒的にメジャーの曲が多いのであるがライブでリクエストを取ると半数以上がマイナーの曲となる。“枯葉” “サマータイム” “鈴かけの径”(これはジャズではないが)等のマイナー曲がズラリと上位に並ぶ。日本人の感性に如何に合っているかを物語っている。
 これほどマイナー曲に人気が集中する理由は日本の伝統的な音楽がマイナー基調で日本人にその感覚が染みついているからではなかろうか。何となく心に安らぎを感じさせるのかも知れない。日本民謡、わらべ歌、演歌の類は殆どがマイナーである。昔日本の要人の葬儀で外国の軍楽隊が譜面から見て悲しそうな曲を選んで演奏したら何とそれは“かっぽれ”であったという笑い話もある。
 ただジャズにも先述したような名曲やハッピーな曲もある。通常ライブではマイナー曲は続けて演奏する事を避ける傾向がある。然し聴く側からすればメジャーもマイナーも余り関係ないのかも知れない。客側からのニーズがあるのならもっと積極的にマイナー曲を取り上げて良いのかなと最近思い始めている。

第56回  中国書道家の教え

 私は一時書道に凝っていた。ある時中国の書の大家に教えを乞うた。どんな高潔な訓話があるかと期待に胸膨らませつつゆっくり墨を摺りながら待った。やがてお見えになった書家は開口一番、「墨は墨汁で構わない、墨を摺る暇があったら一字でも多く字を書く練習をしなさい!」正に目から鱗の先制パンチであった。更に衝撃的だったのは本題の書の実技に入ってからである。書道の稽古の原点は古典の「臨書」であるがその中国の書家はどんな字も古典の書体どおりに書き分ける。形が似ているのみでなくどの字もその書独特な運筆、リズム、タッチを持っているのだ。古典の書聖達もかくやと思われる迫力に圧倒されたのである。要するに「臨書」とは字を真似る事ではなくその筆使いや躍動感を会得する事だと教えられたのである。
 臨書の姿勢は今でもジャズにダブらせている。ジャズでも「臨書」、つまり名手の演奏をコピーすることは大切な上達法だが単なるフレーズコピーだけではダメで歌心やスイング感や音質等を追求すべきなのだ。中国の書家とはたった一度の遭遇であったが得るものは大きかった。然し残念ながら肝心の書に関しては生来の「悪筆」は尊い教えにも拘わらず遂に改善されなかったのである。

第55回 基本は呼吸にあり

 管楽器や歌で良い音(声)を出すための最重要課題は「呼吸」である。呼吸なんて毎日絶えることなく誰でもしているのだからどうって事はない筈だがこと演奏となるとこの簡単な事が難しい。よく客席から見ていると上がっている人はすぐ分かる。音は細り、ミストーンは出て抑揚がなくなる。目は虚ろで端から見ても明らかに「無呼吸」の状態なのだ。
 呼吸の原則は勿論「腹式呼吸」であるのは言うまでもないがラジオ体操のようにゆっくり深呼吸と言う訳には行かない。素早く息を吸って少しずつ吐き出すにはそれなりに腹筋の訓練も必要である。更に息はただ長く続ければ良いというものではなくフレーズに応じて息継ぎをしないと“弁慶がな、ぎなたを持って“のようにおかしなイントネーションとなってしまう。
 黒人歌手のジョーウィリアムスは言っている。「呼吸は足元の大地から空気を吸い上げる事である」と。こうなると剣豪の禅問答じみてくるが彼の太く豊かでアーシーな声を聴いていると“なるほど”と納得する。ジャズの名手達の演奏技術には遠く及ばない私ではあるがせめて基本の呼吸法くらいはマスターして彼らの音色に少しでも近づきたいと常々願っているのである。

第54回 ヴィンテージ楽器の魅力

 サクソフォンはベルギー人のアドルフ・サックスが発明した比較的新しい楽器である。ジャズの主要楽器だが最近はブラスバンドでも人気があり、需要は多い。現在は輸入物の大手ブランドと国内ブランドが広く普及している。最近の楽器製造技術は発達しており音程や演奏し易さという機能面が非常に優れ、品質も安定している。特に日本の楽器の優秀さは世界でも折り紙付きである。
 一方こうした新品楽器とは別に、いわゆる“ヴィンテージ“と称され製造後40年以上経っている年代物の中古楽器の一群がある。これらは楽器屋の店頭でも購入可能だが最近ではネット市場も活発である。ただこうした古いヴィンテージ楽器は一本一本に個性がある反面当たり外れがある。従って現物をしっかり確認しないと品質のおかしな物を掴まされる危険性もある。
 それにも拘わらずヴィンテージ楽器に人気があるのは新品にはない独特の味わい深い音色と気品ある風格に魅力があるからだ。優れたヴィンテージ楽器に巡り会うのは良き伴侶探しと同様に難しい。私は今使用中の楽器に充分満足しているが楽器屋の店頭で姿形の良いヴィンテージ楽器に遭遇すると今でもつい“浮気心”を起して試奏したくなってしまう。

第53回  転調の苦しみ

 管楽器は原調(ピアノキー)と音の高さが異なる場合がある。同じドを吹いても出てくる音はドにならない。アルトサックスであれば一音半高い音が出るしテナーサックスやクラリネットでは一音低い音が出る。
 ジャズで用いる譜面(使わない場合も多いのだが)は原調で書かれている事が多いので演奏する際に自分の楽器に瞬時に転調する必要がある。これも一種の技術と言えるが、ある程度慣れで対応できる。
 クラシックのオーケストラ等ではその楽器用に転調された譜面を用いるので基本的には譜面どおり吹けばよい。所がクラリネットの場合、通常の楽器よりも半音低いA管という楽器が使用される事がある。クラリネット奏者は常に音の高さの異なる2種の楽器を持たなければならない。学生時代には2本買う余裕はなく通常の楽器一本で対応せざるを得ないため全て半音下げる必要が生ずる。転調の煩雑さと同時に#が5つも増えて指使いが格段に難しくなるのだ。
 メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトは大変人気の高い曲でここではソリストとクラリネットの2重奏がある。聴いている分には実に軽快で心地よい。しかし「転調奏者」の私にとっては冷や汗と悪夢以外の何ものでもないのだ。

第52回  ウオーミングアップの秘訣

 ステージに上がる前にはウオーミングアップが必要なのは言うまでもない。しかしなかなかライブ前の慌ただしさの中では充分練習できずに不本意なスタートとなることもある。
 先輩プロから教えられた事だが「ライブ会場に来てプープー練習しているような奴は素人」だそうだ。そう言えばその先輩プレーヤーは「演奏をお願いします」と頼むと楽器をさっと出してパッとくわえて完璧に演奏を始める。どうしていきなりウオーミングアップなしで上手く吹けるのだろうと不思議に思っていた。ある時地方のディナーショーに同行し、ホテルに着いて時間があるので皆で食事に出ようと言う事になった。先輩は部屋から楽器の小さい音が聞こえてくるので邪魔しないよう彼を残して食事に出かけ、数時間後に戻るとまだ吹いているではないか!
 ステージで直ぐ演奏できる秘訣とはごく当たり前で簡単なことだったのである。ライブ前の人の見えない所で楽器、身、心の臨戦態勢を完全に整えておく。これに尽きるのだ。勿論彼の楽器はディナーショーの一曲目から朗々と鳴り響いていたことは言うまでもない。それ以後、私もこの先輩を真似てライブ前には出かける前に家でのウオーミングアップを励行するよう心がけている。

第51回 大切にしたい「間」(ま)

 洋の東西を問わず歌舞音曲に関しては「間」が重視される。能や歌舞伎の世界では所作の一瞬の間が観客を幽玄の世界へと誘う。歌舞音曲に限らない。話芸でも間が重要な要素となっている。昔私の祖父は大変話が上手かった。講談めいた話を孫達に聞かせるのだが佳境に入ってくるとお茶をズズっと一飲みする。そこで孫達は文字通り固唾を呑んで見守り話の中に引き込まれたものである。間と言う言葉を辞書で調べると「話の中に適当に取る無言の時間」とある。それはそれで正しいのだが実際にはそうした物理的な時間や空間の問題だけではなく全体の流れの中でのメリハリといった意味合いが濃いものと実感している。
 ジャズの場合は特にそうだ。元々ジャズはラグタイムと呼ばれてタイミングをちょっとずつずらすことで独特の間を活かした音楽と言える。流れるような流麗なフレーズばかりでは決して感動は呼ばないがそこに効果的な間をおくことによって曲に表情や色彩感が加わるのである。
 ジャズマンの個性は音質、フレーズ、間の取り方で決まると言えるだろう。余り間の多すぎる演奏は退屈で「間延び」してしまうが逆に間の少ない平坦な演奏も「間抜け」として余り歓迎されないのである。

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